第16回 2つの人生

21世紀、現代の日本は世界の国々と交易することで国家が成り立っており、グローバル経済の中でしか生きられない時代になっている。しかしこの極東の島国はわずか150年前まで、鎖国をしていた。寛永年間(1630年代) 徳川家光公により完成した鎖国政策はその後1854年の日米和親条約まで約220年間も続く。
このコラムでは、江戸期に活躍し、思想の面でも開国後の日本の指導者達にも多大な影響を与えた蘭学者の史実を綴ってみようと思う。
このコラムでは、江戸期に活躍し、思想の面でも開国後の日本の指導者達にも多大な影響を与えた蘭学者の史実を綴ってみようと思う。

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![]() 写真は秋田県角館にある解体新書の絵師小田野直武の墓のある寺の境内に立てられた墓碑。墓碑の裏にはオランダ語で、1936年オランダ大使の協力によりここに建立されたことが記されている。
解体新書の偉業は江戸市中だけでなく、瞬く間に全国の医師や学徒の手に写本も含めて伝わっていった。無名の医師だった玄白の名は、全国に知られるようになっていった。41歳になった玄白は今だ独身であったため、来訪者をもてなすこともままならなかった。 周囲の友人らは玄白に妻帯をすすめた。玄白には有阪其馨という解体新書の印刷に尽力してくれた門人がいて、その親戚筋に登恵という教養のある娘がいた。幼時に両親を亡くした彼女は、伊予の国で侍女として働いていたが、養女のため結婚もせず29歳になっていた。周囲の医師達の強い奨めもあり結婚した。 ある朝、一人の若者が玄白の家の門を叩いた。妻の登恵が玄関に顔を出すと、着の身着のままでズタ袋を背負った若者が立っていた。“若狭の国、小浜藩士の杉田先生にお会いしたくて遠路伊勢の国より来ました。”と息も絶え絶えに言った。登恵は慌てて玄白を呼びに戻った。“私が杉田玄白であるが…”と玄関先に出てみると、若者は襟を正して、“あの解体新書の大先生にお目にかかれて光栄です。私は医師を目指して修行しておりますが、修行先で三河の豪商が購入したという先生の解体新書を拝読し、その内容の凄さに胸を打たれたのでござります。田舎で蘭学を学ぶ機会は全く無く、ぜひ弟子入りさせてください。”と額を土間の地面に擦りつけて玄白に懇願した。 その後も医師を目指す多くの若い士が玄白の門戸を叩いた。程なく玄白は天真楼という塾を開き、江戸における蘭学塾の創始者と評され、百人を超す門下生が寄宿する塾となり、私立医学校の様相を呈した。 その一方、良沢は外出することもなく、一人新たなオランダ医学書の訳業を続けていた。彼が解体新書の訳業の中心であることはあまり知られなくなっていった。しかし時に良沢の家に蘭語を学びたいと訪れる若者もあったが、その多くが、数日程も良沢の書斎で彼の仕事ぶりを見るうちに、いかに蘭語の修行が大変かを思い知っては去って行ったのであった。 また中津藩の家臣の中には出版された解体新書の著者に良沢の名が無く、小浜藩医の玄白らが著者であることを指摘し、良沢は藩医として怠慢であると非難するものもあった。しかし若き藩主の奥平昌鹿は学究肌の良沢の良い理解者であり、そんな藩内の批判も“名誉に興味の無いところが良沢殿らしくて良いではないか。あれは蘭学のお化けだからな”と庇護してくれた。良沢はそんな藩主の心遣いに深く感謝し、ついには自分の名前の号を“蘭化”とした。 さらに藩主はプラクテーキというオランダの内科書を、厳しい財政の中良沢に買い与え、良沢はその翻訳を開始した。癲癇、卒中、麻痺、感冒、咽喉カタル、肋膜炎、水腫など近代的な内科学が系統的に解説され、約1年足らずで読破した。しかし彼にはそれを刊行・出版する意志は無く、藩医としての限られた収入だけで前野家の生活は貧しかった。蘭学を学びたいと門を叩いた者達の訪れもいつしか絶えていった。 |
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田中 美千裕 (Michihiro TANAKA)
1991年山梨大学医学部卒、1994年国立循環器病センター、1998年スイス・チューリッヒ大学医学部付属病院勤務、同講師、2004年より亀田総合病院(現職)。 医学博士。 |

最終更新日:2011/12/10






